規格とは何か?路面モジュールとT-Trakのパラレルストーリー
みなさんこんにちは、日暮と申します。
T-Trak Network 路面モジュール連絡会の代表をしています。
このような場で一席持つのははなはだ恐縮なのですが、この規格が生まれる当初段階から関わらせて頂いたことから、
これまでの経緯、それからそもそも規格とは何なのか、ということについてお話させていただこうと思います。
まず、この規格が生まれたのは2000年、もう16年になります。
そもそものきっかけは、天野洋平さんという、当時RM-MODELS編集部でアルバイトをしていた大学生が、
A4パネルに線路を敷いた路面電車用の小さなモジュールを作ったことに端を発しています。
これがたたき台となり、RMM路面モジュール推進委員会と称して、先ほどの天野さん、
後にRM-MODELS編集長から現在ホビダスの商品開発を担当されている羽山健さん、当時東京駅の中にあった模型店Gare De Passageの店長であった加賀丈夫さん、
そして大井ふ頭近傍でサラリーマンをしていた私日暮の4名が碑文谷にあったNEKOさんの社屋に夜な夜な集まり、
喧々諤々やりながら雑誌誌上で規格策定を進めて行く、という連載企画がスタートしました。
当時、長谷川製作所(MODEMO)が、Nゲージの本格的路面電車完成品としては初となる都電6000形と土佐電600形を製品化し、
更に名鉄モ510形という、前面が半円形をした大正末期製造で、当時大変人気のあった古豪電車が製品化されるなど、
路面電車がNゲージの世界の新たなムーブメントになりつつありました。
これを走らせるためのモジュールレイアウトを、雑誌媒体を通じて読者の意見を募りつつ規格のブラッシュアップを図り、
最終的に雑誌からの公募で作品を募って運転会を行った、というのが当時のおおまかな流れです。
今、こうして存在する規格そのものはおおざっぱにいえば単に板のうえにユニトラックが並んでるだけ、
という非常にシンプルなものでして、何でこれに手が掛かったんだろうと思われそうな感じですね。
改めて当時のRMM記事を見てみますと、当時出回っていたNゲージの路面電車や小型電車、実はまだ鉄コレなど影も形もなく、
先ほどのMODEMOさんの路面電車、KATOさんのチビ電とハノーバー電車、TOMIXさんの箱根登山ベルニナ、
それにアーノルトやバックマンの外国形位で、全部で10種類くらいしかなかったんですが、
これらが画材屋さんで売ってるA4パネルベースでぶつからず円滑に走行し、
なおかつ市販のストラクチャーや道路の車線確保が無理なくできる位置の割り出しを進めつつ、
これらの車輛が通過可能な最小曲線半径はいくらなのか、とか、複線間隔は、といったことを、
かなりミニマリズム的というか、限界設計的に決めて行っていたといえます。ごく初期段階、
連載第2回目で複線間隔が25mmという、TOMIXさんの37oはおろかKATOさんの33oをもはるかに下回る数字になっており、
曲線半径に至っては120oという、要は先に挙げた車輛が全てクリアして走る曲線の最小値に設定されているあたりが、
このことを物語っているといえそうです。
さすがに120oでは不都合も多く、そこまで詰めなくてもシーンづくりに大きな影響もないため、
昨今では150oあたりが標準になっています。KATOさんのユニトラムは180oになっていますね。
ちなみに、これは今だから話せることですけれども、連載は対談形式になっていますが、
ミーティングについてカセットテープの録音はしていたものの、実は羽山さんがほとんど話を起こし直し、
そこに人の名前を改めて当て直しております。ですので、話した覚えのないことがだいぶ書かれておりまして、
献本が届くたび、得体のしれない日暮が雑誌誌上に跳梁跋扈しているなあ、なんて気味悪くおもっておりました。
ただ、誰がどう話したかはともかく、ミーティングの中での大筋の話は書かれている通りです。
詳しい中身について、みなさんで当時の雑誌をお持ちでない方で興味がありましたら、
2000年9月号以降のRM-MODELS誌を古本屋さん、ポポンデッタさんやブックオフさん辺りでも漁ってみて頂ければ幸いです。
で、規格策定が始まって間もないころ、第一回のJAMコンベンションが新宿NSビルの地下で開催されました。
この際、アメリカでN-TRAK規格の提唱者として知られていたJim-Fitzgeraldさんと奥様のLeeさんが来日され、
羽山さんから今自分たちがこんな規格策定をしているんだ、という話をしたところ、大変興味を持って下さいました。
実はここから、日本における路面モジュールとアメリカでのT-Trakのパラレルストーリーが始まることになるのですが、
この段階ではまだ大きな問題が残っていました。
モジュールどうしをどうやってつなげるかです。
N-Trakではモジュール下側から台枠をCクランプで固定し、線路はモジュールの端から一定の長さで敷設を省き、
そこに短く切ったフレキシブルレールをはめ込むという方法を採っています。
実はNゲージ路面電車のモジュールレイアウトは先行事例があり、
私立目黒高校、今の目黒学園高校の鉄道研究会さんがかつて部活動で製作したもの、
これはNゲージマガジンに掲載されており、なかなか秀作でしたが、
接続部はN-Trak同様にフレキをはめ込む構成になっていました。
しかしこの方法では、道路の上に一定間隔で道路工事の穴みたいな四角い凹みができてしまいます。
路面モジュール推進委員会で当時検討していたのは、従来からのN-Trak同様の方法のほか、チャンネル材を下からはめ込んで、
物理接続と電気接点を兼ねるとか、マジックテープ、電気コンセント、洋服のスナップなど、
物理接続と電気接点を兼ねるというのを理想としつつ、かなり試行錯誤をしていました。
この点について、路面モジュール・T-Trakの成功のブレイクスルーになったのがユニトラックでした。先行事例として、
太田鉄道模型クラブさんという、群馬県の模型クラブさんが小型のモジュールレイアウトの接続をユニトラックで行って成功していました。
試してみると、A4パネル位ならレール、電気接続、それにモジュールの接続までなんら問題なく、
脱着も簡単で、なによりもどこでも売っているレールを板に貼ればよく、
長さもレールの組み合わせ方で310oという、A4長辺の297oに5oずつ継ぎ足せばOKの長さが確保できるということで、
これで行こう、ということになりました。ここでひとつ注目すべきは、ユニトラックの道床をぴったり並行に並べると、
複線間隔が25oになるということです。これは全く偶然だったのですが、施工が極めて楽にできる、
いいことづくめの結果になりました。難しくいろいろ考えて、答えはあっけないものだった、といえます。
で、2000年12月、20世紀も終わろうというある晩、碑文谷のNEKO PUBLISHINGさんの地下会議室で、
関係各所に声掛けして持ち寄られた路面モジュールが一周のエンドレスに組まれて、最初の試験運転会が行われました。
今でも思い出されるのは、小さな電車が続行でやってくるという光景の新鮮さです。
長編成の列車がぐるぐる走行するシーンに見慣れていた中、新しいことが始まった、という感激であったことを今でも思い出します。
このとき、DCCの機材一式とデコーダ搭載車を持ち込まれた方がおられて、
DCCによる路面電車の試運転も併せて行いました。
複数の動力車の続行運転ではどうしても追突の可能性が免れず、また個別の車輛運転の楽しみもないことは当初から予想されていたことでした。
DCC運転としてはごく初期の試みで、路面電車とDCCは相性抜群でもありますが、根本からのシステムチェンジを要するため、
なかなか普及に至らないのは残念だと思います。
話を戻し、翌2001年春、当時田園都市線高津駅高架下にあった電車とバスの博物館でRMフェスタというイベントが開催されました。
この際に、雑誌上での事前公募で路面モジュール作品が募られ、エントリー形式での公開運転会の第一回目が催されました。
このときは、JMLCのベテラン各位や、造形作家の諸星昭弘さんといったその道の凄腕で知られる方々、
それに石川陽一さんという方が品川八ツ山の国電と京急が立体交差するところを再現した秀作を持ってこられて、一同驚嘆したりしました。
一方でベニヤむき出しに建物が置いてあるだけのような、製作途中のものなども多かったのですが、
作りたいテーマや腕の巧拙を問わず、それぞれの世界を尊重しつつ皆で持ち寄って楽しむというスタンスは、この時点で既に確立していたように思います。
これは、中立を旨とする雑誌媒体が音頭を取ったことの良き遺産といえるかも知れません。
そしてその夏、第二回のJAMコンベンションが有明ビッグサイトで行われ、40台のエンドレスを2組組むかたちで、
雑誌エントリー形式での路面モジュール運転会が催されました。この時のトピックを2つ挙げておきたいと思います。
ひとつはFitzgerald夫妻がふたたび来日、奥様のLeeさんが大変独創的なモジュールを3つ持参されて、エンドレス中に組み込まれて公開運転されたこと。
ご夫妻がアメリカのモデラーにこの規格を紹介するにあたり、T-Trakという名前を付けてくださったこと。
もうひとつは、このとき運転管理を行った有志メンバーが、今につながるT-Trak Networkの母体をなしていることです。
その後数年間、春のRMフェスタ、夏のJAMコンベンションを2大イベントとして推移し、回を重ねるごとにモジュールの参加台数が膨れ上がっていく状態でした。
その事務処理は雑誌媒体が処理する限界を超え、2003年にはそれを肩代わりするかたちで、モデラーどうしのいわば自治会組織として、
T-Trak Network 路面モジュール連絡会が発足します。
ここでクラブと称さなかったのは、主体性のある独立した個人どうしをつなぎとめる連絡手段、ネットワーク、という考え方によります。
この頃JAMコンベンションでのエントリー台数は180台以上という、すさまじい状態となり、しかも3日間のうち1日ないし2日のみの出展など、
個々の都合に合わせた配置の検討を図る必要も生じました。このため、
折り畳みテーブルの上に足を畳んだテーブルを載せてひな壇状にして二重にエンドレスを組んだり、
短期参加者のためにドッグボーンエンドレスを組んで、
路モジのメリットを生かして容易に連結開放ができるようにするなど、さまざまな工夫をして乗り切りました。
皆でデパートなどの高層建築を競作したり、制作者インタビュー、
更には丁度その頃製品化発表されたBトレインショーティーのデモ運転が行われたり、
いろいろな趣向がされたことを思い出します。またこの中で単線規格というのをつくり、
その試作品を設置したこともあります。要するに2本あるうちの1本を省いただけなのですが、
江ノ電のような住宅密集地の単線は、また別の面白さを提示できたと思います。
その頃、まだアメリカでのT-Trakはさほど隆盛というほどではなかったようです。
しかし、簡便なモジュール規格はかの地でも渇望されていて、一方でアメリカにおける路面電車ははるか昔、
1950年代までにそのほとんどが廃れてしまっていました。
トラクションというジャンルは存在しますが、彼らとしても小さな路面電車をあえて小さなNゲージでやる合理性がないと考えられていたのでしょう。
そうした中で、T-Trakは別の進化をしていました。ユニトラックの標準規格である複線間隔33oとし、
フルスケールの車輛、それこそSD75とかAC4400などの本線大型ディーゼル機がダブルスタックトレインを牽引して行き交うようなモジュールレイアウトに変貌していたのです。
これが日本ではオルタネート規格と称して「逆輸入」されてきました。これを、2004年のJAMコンベンション会場ではBトレインショーティー用として設置してみました。
なかなか面白いもので、その頃私共も自治体さんや博物館さんなどの企画展に出展依頼を受けることが増え始め、
川崎市さんのイベントで南武線イメージの展示でBトレインを用いたりしましたが、
既に路面電車の規格として浸透している中で33oのオルタネート規格が普及するには至りませんでした。
今回提案されている規格は、まさにこのオルタネート規格になります。
そしてこの2004年をもって、JAMコンベンションにおける路面モジュールレイアウトの出展をとりやめることとしました。
理由としては、準備期間が半年に及び、職を持っている私共メンバーが200台近い参加が見込まれるモジュール募集、
JAM事務局へのプレゼンテーション、配置図作成、参加者への連絡等々、手分けしてことに当たっても大変な事務量になってしまうことです。
自分の作品を作ることもままならず、更に年齢を重ねて職責も日増しに重くなっていく中で、大きな負担になってしまう、
ということで、路面モジュールの普及発展に水を差すことは承知の上で、断腸の思いでの決断でした。
案の定、このときを境にブームといいますか、ムーブメントとしての路面モジュールは退潮していったと言えます。
しかし、このときJAM出展をやめていなければ、中核メンバーに脱退者が相次ぎ、
存続そのものが危ぶまれていたのではないかと思います。
今となっては、当時からのメンバーは、本業で主任とか課長などの肩書がつく立場になっている方も多くいます。
私自身も、ある出先職場全体を取りまとめる立場にあります。他にもやることがあり、
恐らく余暇の時間にあれだけの事務量をこなす余裕は、もはやないと思います。
この頃から、私たちの活動の方向性にも変化が出てきます。
先ほど川崎市さんからの依頼で小規模な展示を行ったとお話しましたが、
2005年に世田谷区の生活工房さんというところから、東急玉川線、いわゆる玉電の展示について依頼があり、
これに応じることとなりました。そして玉電100周年となった2007年、世田谷線独立40周年となった2009年、更に世田谷文学館と、
玉電と世田谷線に特化した路面モジュールの展示を行いました。
忘れられないのは2007年、土曜日の来場者数800人という記録が出たその夜、テレビのアド街ック天国という番組で世田谷線と玉電が取り上げられ、
翌日曜日に3500人という来場者を記録したことです。
その日私はインフルエンザの治りかけで、体調は回復しつつあったのですが出かけるのを控えていました。
ところが、参加した友人からのSOSメールでやむなくマスク着用で出かけることとし、
三軒茶屋の会場に着くなりモジュールが見えないほどのすさまじい人垣に度肝を抜かれました。
会議用テーブルに並べられたモジュールは人垣で押されていて、
メンバーたちが反対側から必死でテーブルを押さえていたという有様でした。
生活工房さんの企画展動員数でダントツ一位だったそうで、恐らく記録としては今でも破られていないと思います。
更に玉電についてはNHKの「熱中時間」というテレビ番組出演まであり、
T-TrakのTは玉電のTなのではと思われるほどの状況となってしまいました。
そして2011年、都営交通100周年展が江戸東京博物館で催され、ここで全盛期の都電と現在の荒川線をテーマにした展示を行いました。
長丁場の中で、土日を中心にメンバーが交代で両国に向かい、運転や来館者応対を行い、子供たちから昔を知るお年寄りまで好評頂きました。
現在は、JNMAフェスティバルや秋の鉄模連ショウ、年末のさいたま鉄道模型フェスタ、
それに丁度本日行われていますが新潟県柏崎市のイベント、それに岩手県水沢市(※現:奥州市)など、メンバー所在地のイベントを中心に定期活動を行っている状況です。
こうした過程の中で、多くの知己に巡り合いました。
それまで名が知られた方を、路面モジュールを介して数多く繋ぎ止め、更に、今まで知られていなかった凄腕の方を多数発掘できました。
みなさん非常に個性に富み、才能と経験にあふれています。
それぞれの方が、私たち共通の誇りといえます。ただ、最初に集まった顔ぶれがそのまま世代上昇していまして、
最初は大学生か社会人になったばかり位の世代だったのが、
昨今では頭に白いものが、髪の嵩が、とか、目がどうも、腰が、肝臓の値が、血圧が…という話になりつつあるのも確かですが・・・
重要なのは、他のみなさんの作られた作品世界を尊重するということです。
他人作品そのものについて、こうあるべし、お前のこれは許すわけにはいかない、
などということは避けるべきではないかと思いますし、私共が10数年、
大きな分裂や内紛を経ずにやってこれたのも、他者の世界に土足で踏み入れるようなことをせず、
自分の世界を大切に守り育てて作品に反映することに専念してきたからではないかと思います。
さて、アメリカなど海外の状況。正直申し上げて、私はここ数年実物の鉄道保存という別のテーマに関係していることから、
路面モジュール・T-Trakについては隠居状態でして、特に海外での状況については断片的にしか知りませんでした。
オーストラリアに愛好者がいて、接続には端に打ち付けた木ネジに輪ゴム掛けてやってるらしいとかいった話です。
今回改めてネットで検索かけて調べてみて、普通にモジュールレイアウトとして楽しんでおられる方が大勢いることに驚きました。
で、33oが標準であるらしいこと、やはり主力は普通にフルスケールのNゲージを走らせていること。
詳しくは植松様や加藤様のお話に委ねますが、当初の成立経緯を知る身からすると、かなりかけ離れた印象は否めません。
コンセプトがすり替わってしまったとも感じました。
しかし、Fitzgerald夫妻は、ご自身で開発されたN-Trakよりも更に簡便に楽しめるものを探し求めて、見つけたのがT-Trakだったといえます。
なお、ヨーロッパでT-Trakは普及していないようです。そもそもNとHOの普及率が日本とは逆転していますので無理もないかと思います。
私にはベルギーに友人がいまして、彼は路面電車を含め日本型Nゲージをやっていますが、路面モジュールにはあまり興味なさそうでした。
ただ、KATOさんが1/150でスイスのグレッシャーエクスプレスを製品化したところ、
ヨーロッパ現地メーカーの鉄道模型斜陽化をよそに現地でも相当売れているらしいと聞きますので、あるいは脈があるかも知れません。
今回のお話を頂いたときに、いろいろ考えて痛感したのは日本人とアメリカ人の物事の考え方、
進め方の違いです。
私たちは即物的というか、初めに走らせるものありきで、特定の車輛の走行環境を作るところから始めました。
ところが、出来上がったものはそのまま、あるいは少し手を加えるだけ、この場合は複線間隔ですが、
それだけで飛躍的な汎用性の拡大が期待できるということです。
それに比べて、アメリカの方々はより概念的で柔軟です。
実はT-TrakはZからOゲージまで定義されているらしいという話もあり、驚いています。
私たちは成立経緯から、この規格は路面電車や小型電車のためのもの、と捉えてきました。
25oの路面規格は、日本発信のモジュール規格であるこの規格の原点として、これからも皆さんと共に大切に育てていきたいと思います。
昔は、路面の線路を作るだけでもかなりの苦労がありました。
敷石を敷かなければならず、浮き上がりやフランジの干渉が生じ、これが初心者のネックになっていました。
今ではKATOさんがジオタウンシリーズの中でユニトラムという非常に優れた路面電車用線路を、複線間隔25oで製品化してくださいました。
のみならず、平面交差やポイントなど、作りたくても簡単に作れないものも、
何らストレスなく動作するものをリリースされています。もちろん組み合わせ方で310oの長さが確保できます。夢のような話です。
KATOさんには、感謝申し上げたいと思います。
そもそも規格って何なのでしょうか。
規格というのは、互換性を持たせるための妥協点、といったらいいでしょうか。それを守りさえすれば、
何を持ってきても同じように使える、他のものと併せて活用、拡張できる可能性が飛躍的に広がる、その最低限のルールといえそうです。
そのためには、規格を構成する要素は極力シンプルであることが求められます。
路面モジュール T-Trakは、その点から見て結果的にその要件を満たすものにまとめることができた、といえると思います。
規格の一例として、このようなものを持ってきました。トイレットペーパーです。
恐らく世界中でほぼ同じ寸法のものが使われていると思いますが、この品物でとりわけ重要なのは筒の寸法ではないかと思います。
長ければホルダーにはまらない。
短ければ脱落する。筒の直径が小さければやはりはまらない。大きければ巻ける紙の量が減る。
適切な寸法・形状でルールづけられて作られたトイレットペーパーが、日常生活の円滑さを支えている。
これ、いったい誰がこの形状、大きさ、寸法に決めたのでしょうか。
少しだけ調べてみましたが、JISに規定がされているそうですが、ではいったいどこの会社の誰が発案したのか、はっきりしません。
でも芯があって巻いてあるトイレットペーパー、実は大変な発明だと思います。
規格を作った人は別に偉いわけでもなんでもありません。ダブルスタンダードなんていう言葉がありますが、
ときに規格そのものがアイデンティティになって、それを金科玉条のように振りかざしたり、
対抗する規格を乱立させて混乱させる傾向が、
趣味に限らず大手家電メーカーや都市交通などを含めて昔から多く見受けられます。
しかしこれは結果的にその恩恵を被る人々を混乱させるだけなのではないか。
こうしたことは戒めるべきなのではないかと、規格策定の一端に関わった身として当時思い知らされました。
その思いは今も変わりません。
私は、33o規格の普及がきっかけで二度目のムーブメントが来ることに大きな期待を持っています。
もちろん、25oの路面規格と共存すること、たとえば本線鉄道と並行道路の路面電車が並んで走るとか立体交差、
伊予鉄道のような鉄道と軌道の平面交差、
更にはえちぜん鉄道などでなされている鉄道と軌道の乗り入れ運転なども大いに楽しめると思います。
KATOさんがこういう便利で立派なものを製品化して下さっています。33oと25oのアダプターレールです。
長さが310oの倍数、ユニトラックという共通項があれば、いかようにでも楽しむことができます。
つまり、KATOさんは両方の規格について、すでに既製品でフォローして下さっているということです。
私たち自身でも、今回をキッカケに33oモジュールについての可能性をいろいろ考えています。
一方で、皆さんの中で25oの路面モジュールを作ろうとされる方がいれば、それはそれで大変うれしく思います。
それぞれにそれぞれの面白みがある、といえます。
皆さんには好みに応じて、大きく分けて25oの路面軌道と33oの本線鉄道という、
2つの選択肢があるとお考え頂ければいいのではないでしょうか。
あくまで主役は作品を作られるみなさん自身です。繰り返しになりますが、
規格は、それをみんなでつなげて楽しむという目的を達成するための、可能な限り最低限の妥協点にすぎません。
そしてこの規格は、ユニジョイナーという成功のキーポイント、そして16年という時間の中、いろいろな方々の手で、みんなで育てた規格と言えます。
ユニジョイナーがつなげる、国や地域の枠をも超えた人々の縁とネットワーク、それがこの規格の本当の魅力なのではないかと思います。
最後に、このような場にお誘い頂いた加藤様はじめ関水金属様、植松様、そして雑誌当時お世話になりました羽山様はじめネコパブリッシング様、
いつも支えてくださるT-Trak Networkのみなさん、そして、ご来場の皆様に御礼申し上げます。
また、Jim Fitzgeraldさんは2013年10月にお亡くなりになり、奥様のLeeさんも体調を崩されて久しいと伺っております。
ご夫妻にこのスピーチをささげて締めくくりとさせていただきたいと思います。
ありがとうございました。
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